トイレのドアを閉めた、その瞬間。
泣き声が聞こえる。ドアを叩く音がする。「ままー!」という声が、ドア越しにつき刺さってくる。
用を足している30秒が、永遠のように長く感じる。終わってドアを開けると、床に座り込んで涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった我が子がいる。その顔を見て、罪悪感と疲労感が一緒にのしかかってくる。
一人でちょっと座りたい。深呼吸したい。誰かと大人の会話がしたい。でも離れると泣く。抱っこしていないと泣く。ほんの少し視界から消えるだけで泣く。
「私、ずっとこれが続くの?」「こんなにしんどいと思ってしまう私は、ダメなお母さんなの?」
この記事は、そんなふうに心がすり減っているあなたへ書きました。後追いがしんどい、1歳ごろの「ママじゃないと泣く」毎日を、もう少しだけ楽に過ごすための考え方と、しんどさと正直に向き合うための言葉をお届けします。
「後追い」とは何か——しんどさの正体を知る
後追いとは、赤ちゃん・子どもが特定の養育者(多くの場合はお母さん)の姿が見えなくなると、泣いたり追いかけたりする行動のことです。一般的に生後8ヶ月ごろから始まり、1歳前後にピークを迎えることが多く、2歳ごろにかけて少しずつ落ち着いていきます。
でも「いつ終わるか」よりも先に、「なぜこんなに激しいのか」を知ることが、気持ちの整理に役立ちます。
後追いが起こる理由①「対象の永続性」がまだ育ちきっていない
発達心理学の概念に「対象の永続性」というものがあります。これは、「目の前から消えたものも、存在し続けている」という認識のことです。
大人にとっては当たり前のことですが、生後8〜12ヶ月ごろの赤ちゃんは、この認識がまだ完全には育っていません。つまり、ママがトイレに入って姿が見えなくなったとき、赤ちゃんの世界では「ママが消えた」という感覚に近い体験が起きているのです。
これは大げさな表現ではありません。「いなくなったら戻ってくる」という確信がまだ持てない赤ちゃんにとって、親の姿が見えなくなることは、本当に不安で恐ろしい体験なのです。
後追いが起こる理由②愛着対象との絆が深まっている証拠
発達心理学者のジョン・ボウルビィが提唱した「愛着理論」によれば、赤ちゃんは生まれながらに特定の養育者と強い情緒的な絆(愛着)を結ぼうとする本能を持っています。
この愛着の絆が形成されるからこそ、その人がいなくなることへの不安が生まれる——つまり後追いは、「この人が大切」「この人がそばにいてほしい」という愛着の証そのものです。
後追いが激しい子ほど、親との愛着が深く形成されている、ということでもあります。
後追いが起こる理由③「分離不安」という正常な発達段階
生後8ヶ月前後に始まる後追いは、発達の専門家の間では「8ヶ月不安」とも呼ばれ、正常な発達の一段階として位置づけられています。自分とお母さんが「別々の存在」であることに気づき始めた赤ちゃんが、その分離への不安から強く「くっつこう」とする——これは知的・感情的な発達が進んでいる証拠でもあります。
つまり、「後追いが激しい」ということは、赤ちゃんの発達が順調に進んでいることの表れでもあるのです。
それでも「しんどい」は本物——後追いがお母さんを消耗させる理由
後追いが愛着の証だとわかっても、しんどいものはしんどい。これは事実です。
「発達的に正常」という説明は、しんどさを消してくれるものではありません。「大切にされている証拠だよ」という言葉は、疲れたお母さんを追い詰めることすらあります。「大切なのはわかってる。でも、しんどい」。その両方が本当なのです。
なぜ後追いはこんなにも消耗するのか
後追いによる消耗の最大の理由は、「一人になれる時間がゼロになる」ことです。
人間は、一人でいる時間を必要とする生き物です。ひとりで考え、感じ、休む時間があることで、感情が整理され、また人と関われる状態に回復します。
後追いの時期は、この「一人の時間」が完全に奪われます。トイレも、食事も、着替えも、電話も——すべてに子どもがついてくる。あるいは泣き声が追いかけてくる。「自分だけの空間」が、一切ない状態が続くのです。
これは単なる物理的な疲れではなく、心理的に非常に大きな負荷です。「自分の感覚を持てない」「自分が消えていく」ような感覚を訴えるお母さんもいます。これは大げさではなく、実際にそれだけのストレスが積み重なっている状態です。
「応えなければ」というプレッシャーがさらに疲弊させる
後追いに気づいたお母さんは、多くの場合「ちゃんと応えてあげなければ」と感じます。愛着形成のためにも、赤ちゃんの不安を受け止めてあげることは大切——それはその通りです。
でも、「ちゃんと応えなければ」というプレッシャーが重なることで、疲れていてもそれを認められなくなります。「しんどいと思う私はダメだ」「もっと笑顔でいてあげなければ」と、自分に厳しくなりすぎてしまうのです。
しんどいと思うことは、悪いことではありません。しんどいと感じながらも毎日そばにいて、応え続けているあなたは、十分すぎるほど頑張っています。
後追い期を「再定義」する——見方が変わると、少し楽になる
しんどさは変わらなくても、「この状況の意味」の見方が変わると、気持ちの負荷が少し軽くなることがあります。
後追いは「信頼の請求書」
後追いを、こんなふうに捉えてみてください。「ママがいちばん安心できる。だから、ママにそばにいてほしい」という、赤ちゃんからの信頼の表明。
あなたがこれまでの毎日の中で、泣いたら抱き上げ、お腹が空いたら授乳し、怖い顔じゃなく笑顔でいようとして、声をかけてきた——その積み重ねが、「この人は私を守ってくれる」という信頼になっている。後追いは、その信頼の請求書なのです。
後追いは「今しかない時間」でもある
「後追いが激しい時期」は、発達の中の一段階であり、必ず終わりが来ます。数年後、子どもは「一人でできる」「友達と遊びたい」という方向に進んでいきます。
今、ぴったりとくっついてくるこの重さも、少し先には「ちょっとさみしいくらい」になっていることがあります。今がいちばんしんどい時期だということは、今がいちばん「必要とされている時期」でもある——そう思うことが、すべての日に当てはまるわけではないけれど、少し視点を変えてくれる言葉になることがあります。
「完璧に応える」より「何度でも戻ってくる」が大事
愛着研究が明らかにしていることの一つに、「親が常に完璧に応えることが愛着形成に必要なわけではない」という事実があります。
親が子どものサインにうまく応えられる割合は、30〜40%でも十分な愛着が育つと言われています。大切なのは、離れても戻ってくること、すれ違っても修復すること——つながりを繰り返すプロセスそのものです。
「うまく笑顔で応えられなかった」「つい焦って声が大きくなった」という日があっても、また抱き上げて、また声をかける。その繰り返しが愛着を育てます。完璧でなくていい。ただ、戻ってくればいい。
今日から使える「後追い期をやり過ごす」実践的な工夫
しんどさの意味を理解することと、しんどさを軽減する工夫は、どちらも大切です。後追い期を少しでも楽に過ごすための実践的なアイデアをお伝えします。
①「行ってきます」と「ただいま」を必ず言う習慣をつける
トイレに行くとき、台所に行くとき、「ちょっとトイレ行ってくるね、すぐ戻るよ」と必ず声をかけてから離れましょう。そして戻ったら「戻ったよ」と伝える。
これを繰り返すことで、赤ちゃんは「ママは消えるんじゃなくて、いなくなっても戻ってくる」という体験を少しずつ積み重ねることができます。対象の永続性と、分離への安心感を、小さな積み重ねで育てていくのです。
②「離れるときのルーティン」を作る
「バイバイしたらすぐ戻ってくる」というパターンを繰り返すことで、子どもは「バイバイ=消えてしまうことではない」と少しずつ学習していきます。
たとえば、離れるときにいつも同じ言葉と同じジェスチャーを使う(「ちょっと待っててね、すぐ戻るよ」と手を振る)ことで、「このパターンが来たら大丈夫」という予測の感覚が育ちやすくなります。
③「安心グッズ」を導入してみる
お気に入りのぬいぐるみやタオルを「安心グッズ(トランジショナルオブジェクト)」として導入することも一つの方法です。ママの匂いがついたハンカチや、毎晩一緒に使うお気に入りのぬいぐるみが、ママがいないときの不安を和らげてくれることがあります。
これは愛着の代替ではなく、「安心の象徴」として機能するものです。
④「後追いコーナー」を作る
日常的によく動く場所(台所・洗面所など)に、子どもが安全に過ごせるスペースを作っておきましょう。おもちゃや本を置いておき、「ここにいるね」と声をかけながら家事をする。完全に離れなくても、少し距離があれば親もリフレッシュできます。
見えているけれど、少し離れている——この距離感が、お母さんにとっての「ひと息」になります。
⑤「ちょっと待って」を練習する
「今すぐ」ではなく「少し待つ」ということを、少しずつ練習していくことも発達上意味があります。「今手が離せないから、あと30秒待ってね」と伝え、30秒後に必ず応える。
この「待ったら来てくれた」という体験の積み重ねが、分離への耐性を少しずつ育てます。ただし、これは長時間泣かせっぱなしにするということではありません。今日は30秒、来週は1分——小さなステップで無理なく進めましょう。
⑥ パートナー・祖父母と「ママ以外の時間」を少しずつ作る
後追い期に「ママ以外の人と過ごす時間」を作ることは、子どもにとっても大切です。最初は泣いても、「ママは戻ってくる」という体験を安全な人との間で繰り返すことで、少しずつ分離への耐性が育まれます。
パートナーや祖父母に「15分だけ見ていてほしい」と頼み、その間に別室で横になる——それだけでも、お母さんの回復に大きな違いが出ます。
「私だけがしんどいわけじゃない」と知ること
後追い期のしんどさは、日本中の多くのお母さんが経験していることです。「1歳 ママじゃないと泣く」「後追い しんどい」と検索しているお母さんが、今この瞬間も何千人もいます。
SNSでは「うちの子、後追いがひどくて本当につらい」という投稿は少ない。でも実際には、同じ状況でスマホを開く余裕もなく、静かにしんどさを抱えているお母さんが、たくさんいます。
しんどさを感じているのは、あなただけではありません。そしてしんどさを感じることは、お母さん失格ではありません。毎日この状況をやり過ごしているあなたは、それだけで十分すぎるほどよくやっています。
「後追いがしんどい」をパートナーに伝えるには
後追いのしんどさは、経験していない人には伝わりにくいものです。「かわいいじゃん」「自分を必要としてくれてるんでしょ」と言われ、余計に傷ついた経験があるお母さんも少なくありません。
パートナーに伝えるときは、感情の言葉より「事実の言葉」が届きやすいことがあります。
「かわいいのはわかってる。でも、今日はトイレにも一人で行けなくて、ご飯も立ったまま食べた。一人になれる時間が一秒もなくて、頭がおかしくなりそう」——具体的な事実を伝えることで、「どうしてあげればいいか」がパートナーにも見えやすくなります。
「しんどい」という言葉だけでなく、「今日こんなことがあった」という具体的なエピソードを添えると、相手の理解が深まります。
後追いはいつ終わる?——見通しを持つことの大切さ
後追いのピークは1歳前後で、多くの場合1歳半〜2歳にかけて少しずつ落ち着いてきます。「対象の永続性」の認識が育ち、「ママはいなくなっても戻ってくる」という確信が強くなるにつれ、分離への不安は自然と薄れていきます。
また、言葉が発達してくると、「トイレ行ってくるね」という言葉の意味を理解できるようになり、それだけで安心できるようにもなります。「ちょっと待ってて」が通じる日が、必ず来ます。
今がいちばんしんどい時期であることは、今が一番変化の中にある時期でもあるということです。後追いが激しいこの時期は、長い育児の中では比較的短い一段階です。必ず終わりが来ます。
まとめ:後追いは愛着の証。しんどいあなたも、十分すぎるほど頑張っている
- 後追いは「対象の永続性」の未発達・愛着形成・分離不安という発達上の正常な現象
- 激しい後追いは、それだけ深い愛着が育っている証拠でもある
- 「一人になれない」という状況は心理的に大きな負荷であり、しんどいと感じるのは当然
- 後追いを「信頼の請求書」と捉え直すことで、気持ちの負荷が変わることがある
- 完璧に応え続けなくてもいい。離れても「戻ってくる」という繰り返しが愛着を育てる
- 「行ってくるね・戻ったよ」の習慣化、安心グッズ、パートナーとの分担など、小さな工夫でしんどさを軽減できる
- 後追いのピークは1歳前後で、1歳半〜2歳にかけて落ち着いていく子が多い
トイレにも行けないこの毎日が、永遠に続くわけではありません。でも今、この瞬間のしんどさは本物です。その両方が、同時に本当のことです。
しんどいと感じながらも、今日もそばにいてあげたあなたへ——本当に、お疲れ様でした。
※この記事は一般的な情報提供を目的としており、医療・心理的な診断に代わるものではありません。後追いの程度が非常に激しく、お母さん自身の精神的消耗が大きい場合は、小児科・保健師・子育て支援センターなどにご相談ください。
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